阿部定事件から90年|愛慾の果てに局部を切断した動機と数奇な余生

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阿部定事件から90年|愛慾の果てに局部を切断した動機と数奇な余生
阿部定事件から90年|愛慾の果てに局部を切断した動機と数奇な余生
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🎵 阿部定事件から90年|愛慾の果てに局部を切断した動機と数奇な余生

1936年(昭和11年)の凶行から数えて90年の節目を迎えた今なお、近代日本犯罪史のなかで最も強烈な異彩を放ち続けているのが「阿部定事件」です。二・二六事件の衝撃冷めやらぬ帝都・東京で、愛人の男性を絞殺したうえでその性器を切り取り逃走した阿部定の行動は、当時の社会に激震をもたらしました。

猟奇的な側面ばかりがセンセーショナルに語られがちですが、司法記録や当時の精神鑑定書、関係者の証言録を精査すると、そこには単なる異常性癖で片付けられない、極限の「共依存」と孤独が浮かび上がってきます。被害者である石田吉蔵との愛憎劇、逮捕時に見せた不可解な落ち着き、そして出所後の謎めいた足跡まで、事件の全貌を検証します。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 要点1:1936年5月18日に起きた愛人絞殺・局部切断事件であり、犯行現場となった尾久の待合に残された血文字など常軌を逸した執着が世間を震撼させた。
  • 要点2:犯行の動機は「吉蔵を誰にも渡したくない」という極端な独占欲であり、被害者側の窒息遊戯嗜好と重なり合った破滅的共依存が凶行を招いた。
  • 要点3:異例の情状酌量により懲役6年の判決にとどまり、戦後は映画『愛のコリーダ』など芸術作品に昇華される一方、本人は1970年頃に消息を絶ち現在も没年は分かっていない。

【阿部定事件の経緯まとめ】待合「満佐喜」で起きた凄惨な凶行の全貌

事件が白日の下にさらされたのは、1936年5月18日午前11時頃のことでした。阿部定事件の現場となったのは、東京市荒川区尾久(現在の東京都荒川区西尾久)にあった待合「満佐喜(まさき)」の2階八畳間。宿の女中が踏み込んだ部屋には、常軌を逸した光景が広がっていました。

布団の上に横たわっていたのは、中野の鰻料理店「吉田屋」の主人であった石田吉蔵(当時42歳)の遺体でした。死因は首を紐で絞められたことによる窒息死。遺体は下半身の局部(陰茎および睾丸)が包丁で完全に切断されており、シーツと吉蔵の左太ももには、自らの指に血をつけて書いた「定吉二人キリ」、左腕には刃物で「定」の文字が刻み込まれていました。

前日に「吉蔵さんは疲れて眠っているから起こさないでほしい」と言い残して宿を立ち去っていたのが、当時30歳の阿部定でした。ふたりは事件前の4月23日から約3週間にわたり、この待合にほぼ缶詰状態となって昼夜を問わず性生活に溺れ続けていました。当時の警察発表や司法記録によれば、現場には争った形跡がほとんどなく、吉蔵が深い眠りについている最中、あるいは意識朦朧とした状態のなかで静かに命を奪われた事実が裏付けられています。

当時のメディア報道・掲載写真
【検証資料 1】当時のメディア報道・掲載写真(出典:imgu.web.nhk)

なぜ局部を切り取ったのか?石田吉蔵との狂おしい愛憎と阿部定事件の動機

世間を最も戦慄させ、同時に好奇の目に晒した核心が、阿部定事件の動機と遺体損壊の理由です。取調室での供述や裁判資料によると、定は犯行理由について次のような生々しい告白を残しています。

「吉蔵を誰にも渡したくなかった。死んでしまえば、ほかの女のところへ行くこともない。あの人の体の一部を自分のものにして持っていれば、永遠にふたりでいられると思った」

事件の発端は、定が中野の「吉田屋」に仲居として雇われ、店の主人であった吉蔵と関係を持ったことでした。吉蔵には献身的に店を切り盛りする石田吉蔵の妻(石田シゲ)と子どもたちがおり、吉蔵自身も町内で顔の利く気前の良い男として知られていました。しかし定との情事にのめり込むにつれ、家庭も商売も放り出し、泥沼の逢瀬に没入していったのです。

さらに見逃せない事実として、吉蔵自身が性行為の最中に首を絞められる「窒息愛好」の傾向を持っていた点が挙げられます。犯行数日前から、ふたりは互いの首を絞め合って快楽を高める危険な行為を繰り返していました。「死ぬなら一緒に死のう」「いっそお前の手で殺してくれ」という吉蔵の甘美な言葉を、定は病的な純粋さで受け止めてしまった側面があります。妻のもとへ帰る現実から吉蔵を永遠に切り離し、絶対的な独占を果たすための手段が「絞殺」であり、その象徴としての「局部の切断」でした。

阿部定の生い立ちと逮捕の瞬間|凶器と「形見」を抱えた異様な心理

極限の愛憎劇へと突き進んだ背景には、阿部定の生い立ちが深く影を落としています。1905年(明治38年)、東京・神田多町の畳表製造販売を営む裕福な商家に生まれた定は、幼少期から美貌に恵まれ、両親の寵愛を受けて三味線や日本舞踊を習うなど不自由なく育ちました。

しかし15歳のとき、知人の大学生から性的暴行を受けるという過酷な悲劇に見舞われます。この事件をきっかけに家庭内での居場所を失い、自暴自棄となった定は芸妓、遊女、私娼へと転落。男性に利用され搾取される荒んだ生活を送るなかで、「心から自分だけを愛してくれる男」への飢餓感を極限まで募らせていきました。そこに現れたのが、類まれな包容力と快楽を与えてくれた吉蔵だったのです。

吉蔵を殺害した定は、切り取った局部を紙と風呂敷に包み、肌身離さず持ち歩きながら東京の街を潜伏しました。事件発生から2日後の1936年5月20日夕方、警察は品川駅前の旅館「品川館」に潜伏していた定を急襲し、身柄を確保します。

逮捕の瞬間、刑事から「アレを持っているな」と問われた定は、動じることなく「ええ、持っています。吉蔵の体の一部です」と静かに答えたと記録されています。逮捕時の護送写真に写る定の表情は、凄惨な凶行を犯した逃亡犯のそれではなく、すべての執着を果たし終えたかのような、どこか憑き物が落ちた笑みさえ湛えていました。この不気味なほどの落ち着きが、当時の新聞報道を通じて日本中に強烈なインパクトを与えました。

活動歴および当時の関連ビジュアル記録
【検証資料 2】活動歴および当時の関連ビジュアル記録(出典:lookaside.fbsbx.com)

【阿部定の判決理由】なぜ死刑を免れたのか?昭和猟奇事件の深層データ比較

当時、世間を驚かせたもうひとつの焦点が、下された司法判断の軽さでした。検察側の求刑懲役10年に対し、東京地裁が言い渡した判決は懲役6年。死刑や無期懲役が科されてもおかしくない猟奇事件において、なぜこの量刑となったのか、阿部定の判決理由には当時の司法精神医学の判断が色濃く反映されていました。

裁判所は、定が持っていた「心因性のヒステリー性格」と、吉蔵に対する病的な独占欲による「心神耗弱状態」を認定しました。吉蔵自身が窒息行為を要求していた背景や、金品奪取を目的とした強盗殺人ではなく純粋な情痴に基づく犯行であった情状が汲み取られた結果です。

事件名・項目詳細・判決結果一般的な基準・相場編集部の見解・分析
阿部定事件(1936年)求刑懲役10年に対し、懲役6年の有罪判決。恩赦により約4年半で出所。殺人および死体損壊罪では無期懲役または死刑が通例。極度の痴情・精神的耗弱と被害者の同意的要素が認められた極めて異例の量刑。
二・二六事件(1936年)との時代対比事件の約3か月前に発生。戒厳令下の重苦しい世情。軍事クーデターによる厳戒態勢と情報統制。国家主義の抑圧に対する反動として、大衆の関心が性愛事件に異常集中した。
他の昭和猟奇事件との比較津山三十人殺し(1938年)や小平事件(1946年)など。無差別殺人・連続強姦殺人は死刑または自決。他者に危害を及ぼさない「閉じた二人だけの世界」であった点が大衆の同情を呼んだ。

昭和猟奇事件の歴史を紐解くと、この事件がこれほど強烈に消費された最大の要因は「時代背景」にあります。軍国主義へと傾倒し、自由な言論や生活が圧殺されつつあった暗い時代に、個人の究極的なエロティシズムと情念を剥き出しにした阿部定の事件は、大衆にとってある種の強烈な心理的解放口として機能してしまったのです。

阿部定のその後と晩年の消息|映画『愛のコリーダ』への昇華と現在の謎

服役した定は、模範囚として刑務所生活を送り、1940年の紀元二千六百年特別恩赦によって減刑され、1941年5月に刑期満了で出所しました。しかし、世間が「お定」を放っておくことはありませんでした。阿部定 その後の足跡は、戦前・戦後の混乱と重なり合い、波乱に満ちていました。

出所後は偽名を使って暮らしていましたが、戦後は無頼派の文豪・坂口安吾と対談を行ったり、自伝の出版、さらには浅草の劇場で自身の事件を題材にした舞台劇「昭和一代女」に主演するなど、一時は時代のアイコンとして公の場に立ち続けました。その後、1960年代には東京・浅草や銀座で「若竹」というおにぎり屋・居酒屋を経営し、多くの常連客に親しまれていたことが関係者の証言として残っています。

しかし、阿部定 晩年と現在の消息には大きなミステリーが残されています。1970年頃、60代半ばを迎えていた定は、周囲に何も告げず突如として店をたたみ、そのまま失踪しました。伊豆の老人ホームに入居した、あるいは近畿地方の寺院で出家して静かに余生を終えたなど様々な噂が飛び交いましたが、公的な戸籍上の記録や正確な死亡年月日、墓所の所在は今なお判明していません。

一方、事件そのものは1976年、大島渚監督・藤竜也主演の国際共同制作映画『愛のコリーダ』として映像化されました。性愛の極限と人間の実存を描いた同作はカンヌ国際映画祭などで世界的な絶賛を浴び、単なる犯罪の記録を超えて、国境を越えた普遍的なアヴァンギャルド芸術の神話として定着することになりました。

公の場での発言・インタビュー報道記録
【検証資料 3】公の場での発言・インタビュー報道記録(出典:m.media-amazon.com)

一般に知られていない盲点とネットの誤解

ネット上の言説やまとめ情報では、刺激的なキーワードが一人歩きし、阿部定の実像について誤ったイメージが定着しているケースが少なくありません。報道アーカイブや公判記録から判明している決定的なギャップを整理します。

  • 誤解1:阿部定は冷酷無比な快楽殺人者だった?
    実態は正反対であり、定の性格は非常に情にもろく、吉蔵に対しては終始従順で献身的な女性でした。取調官や刑務官も彼女の物腰の柔らかさと礼儀正しさに驚いた記録を残しており、精神医学的にも反社会性パーソナリティではなく、極度の愛着障害と不安障害が生んだ暴走であったことが判明しています。
  • 误解2:被害者の石田吉蔵は定の罠に嵌められた被害者?
    吉蔵自身も破滅を意識しながら定との情事に耽溺していました。定を束縛し「離れたら承知しない」と言い放ち、性的な窒息プレイを定に主導させたのは吉蔵自身でした。一方的な加害・被害関係ではなく、ふたりの間で合意形成された狂気がエスカレートした結果です。
  • 誤解3:局部を切断したのは復讐や恨みのため?
    定に吉蔵への恨みは一切ありませんでした。「ほかの女に渡したくない」「吉蔵の最も愛した部分を永遠に自分のものにしたい」という狂気的な愛情の証であり、彼女にとって局部は復讐の戦利品ではなく、崇拝する恋人の「形見」でした。

【実態検証とプロの結論】共依存の極限形態から現代人が学ぶべき教訓

阿部定事件の本質とは何だったのか。阿部定事件 真相を現代の人間関係論、とりわけ臨床心理学と家族社会学のフレームワークで分析すると、そこには「破滅的共依存(Toxic Co-dependency)」の究極形が見て取れます。

「心理的バウンダリー(境界線)」の完全崩壊

健全なパートナーシップにおいては、互いを独立した一個の人間として尊重する「心理的バウンダリー(境界線)」が不可欠です。しかし定と吉蔵の関係は、互いの自我の境界が完全に溶け合い、相手の生死や肉体までもが自己の所有物であると錯覚する重篤な共依存に陥っていました。「相手がいなければ生きていけない」という飢餓感が、「相手を殺してでも永遠に手元に置く」という狂気の論理へとすり替わってしまったのです。

現代のパートナーシップにおける判断基準

この事件は、90年前の特異な昭和猟奇事件として片付けることはできません。現代においても、SNSやメッセージアプリを通じて相手の行動を24時間監視しようとする束縛や、別れ話を切り出された際のエスカレートするストーカー心理など、根底にある病理は地続きです。

【関係性を見極めるためのプロの判断基準】

  • 危険な兆候:相手のすべてを把握しないと激しい不安に襲われる、ふたりだけの閉じた関係に引きこもり周囲の人間関係を遮断する、相手の存在に自己肯定感を100%依存している。
  • 健全な状態:互いにひとりの時間や個別のコミュニティを持ち、異なる価値観を許容できる自立した境界線が保たれている。

定の犯行を美化することは断じて許されませんが、他者への強烈な執着が理性を凌駕したとき、人間がどこまで暴走しうるかを示す心理劇の極限として、この事件は現代を生きる私たちにも重い警鐘を鳴らし続けています。

【阿部定事件】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:石田吉蔵の遺族や妻(石田シゲ)は事件後どうなったのですか?
A1:妻のシゲは事件によって突如として夫を失い、さらに世間からの凄まじい好奇の目に晒される過酷な試練に見舞われました。しかしシゲは気丈にも中野の「吉田屋」の暖簾を守り続け、戦中・戦後の混乱期を生き抜いて店を営業し続けました。世間からの同情も集まり、吉蔵の不実を背負いながら家族を支え抜いた女性として語り継がれています。

Q2:阿部定が持ち歩いていた「体の一部」はその後どうなったのですか?
A2:警察に押収された後、裁判の証拠物件として扱われました。公判終了後は東京大学医学部(法医学教室)に引き渡され、ホルマリン漬けの標本として厳重に保管されていたと伝えられています。しかし戦後の混乱や施設の改修などを経て、現在の所在については公式には明らかにされておらず、散逸あるいは火葬されたとの見方が有力です。

Q3:なぜ定は事件後にすぐ自殺しなかったのですか?
A3:定自身、犯行直後は後追い自殺を企図していました。しかし、吉蔵の体の一部を持ち歩くうちに「まだ吉蔵と一緒に生きている」という強烈な陶酔感に包まれ、死の恐怖よりも吉蔵との一体感が勝ってしまったと取調べで述べています。逮捕されたことでその夢想は断ち切られましたが、彼女にとって逃亡の2日間は「ふたりだけの永遠の蜜月」の延長でした。

まとめ:愛の狂気と昭和の暗雲が交錯した歴史的事件の教訓

1936年という軍靴の轟く時代に起きた阿部定事件は、男女の情愛の暴走が生んだ凄惨な殺人劇でありながら、国家主義に押しつぶされそうになっていた当時の日本人に、生と性の根源的なエネルギーを突きつけた事件でもありました。

吉蔵を奪われることへの絶望が生んだ凶行、出所後の数奇な運命、そして謎のまま幕を閉じた晩年。事件から90年が経過した今もなお阿部定という女性が語り継がれる理由は、彼女が犯した罪の猟奇性だけでなく、誰もが心の奥底に抱えうる「愛されたい」という孤独と執着の深淵を、あまりにも生々しく体現してしまったからにほかなりません。 (出典: 阿部 定 事件(Yahoo!ニュース)

阿部 定 事件
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